日本鍼灸史の功労者 小守良勝について



1 はじめに


「戦時中の鍼灸」について書かれた資料の中に、小守良勝先生に関するものがあった。


それによると

「戦時中、物価統制令が敷かれ鍼の地金が手に入りにくくなったが、小守良勝先生が当時の厚生省に『鍼は贅沢品ではなく必需品だ』と何度も掛け合った末、鍼の製造に必要な地金が手に入るようになった」

そうである。


もし、この交渉がなければ日本における鍼治療の歴史は大きく変わっていたかも知れない。


小守良勝先生について調べてみることにした。


2 小守良勝(こもりよしかつ)の略歴


明治25年5月  東京都に生まれる

大正7年4月  東京マッサージ学院を設立しマッサージ師の養成に努める

昭和5年4月  東京大学蹴球(サッカー)部嘱託

昭和6年4月  慶應義塾大学野球部嘱託

昭和8年4月  早稲田大学蹴球(サッカー)部嘱託

昭和9年8月  米大リーグのトレーナー:ノールス氏と技術交流を行い新知識を得る

昭和10年4月  東京大学野球部嘱託

昭和15年7月  日本野球連盟満州遠征に随行

昭和18年5月  日本鍼灸マッサージ師会設立。副会長、総務局長に就任 

昭和22年6月  日本鍼灸マッサージ師会連盟を結成。初代会長に就任

昭和23年3月  東京都鍼灸按摩マッサージ師会会長に就任

昭和23年7月  厚生省あん摩はりきゅう柔道整復中央審議会委員に就任

昭和24年5月  文部省、理療科協議会委員に就任

昭和24年5月  鍼灸マッサージ新報社を設立

昭和25年1月  東京読売巨人軍専属トレーナーとなる

昭和30年4月  東京都鍼灸按摩マッサージ師会連合会長に就任

昭和33年12月  全国鍼灸按摩マッサージ連盟会長に就任

昭和34年7月  東京都鍼灸按摩マッサージ師会会長に就任


3 その功績について


①:国家総動員法および価格等統制令下の日本において当時の厚生省と折衝し、民間の鍼具製造業者が地金を購入できるようにした。



1938年(昭和13年)第一次近衛内閣によって「国家総動員法」が制定された。


これは日中戦争の激化に伴い国家の全ての人的・物的資源を政府が統制および運用できる旨を規定したものである。


当時の日本経済では中国で活動する日本軍の需要を満たすことができなくなっていたため、経済の戦時体制化が急務であった。


つまり国家総動員法によって統制経済ないしは社会主義経済体制を実現させた。


また1939年9月にはヨーロッパで第二次世界大戦が始まった。


日本政府は国家総動員法に基づき、価格の据え置いて値上げを禁止し同年9月18日現在の価格を上限とする「価格等統制令」を発令する。


これらは政府による軍事最優先の法律・法令であり、結果として民間人の物資や食料の欠乏と物価高騰を引き起こし、多くの国民が貧困に陥った。


鍼を作るための地金も例外ではなく、政府の管理のもと軍事利用が優先された。


地金においてもインフレーションが起こり、民間人による購入は非常に困難であった。


全国の鍼灸師および製造業者が困り果てていたとき、後の全国鍼灸按摩マッサージ師会の会長となる小守良勝が「鍼は国民の贅沢品ではなく必需品だ」と当時の厚生省に何度も嘆願した。


その結果、鍼の製造に用いる地金が政府から民間に融通されるようになり、製造業者も手に入れられるようになった。


②:「スポーツトレーナー」という職種を実質的に立ち上げ、鍼灸・按摩・マッサージをひとつの治療メソッドとして確立し、トレーナーの必要性をスポーツ界に認識させた。



徳川幕府による「鎖国」は日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。


この長期にわたる国際社会からの孤立により、近代スポーツに関する知識や情報も日本に伝わることもなかった。


その後、幕末・開国を経て日本に野球が伝来したのは明治4年(1871年)といわれている。


東京の開成学校(現在の東京大学)の生徒がアメリカ人教師:ウィルソンの指導によって行ったものが日本初の野球とされている。


またサッカーにおいては、1872年に神戸市の外国人居留地で行われた試合が日本初という説と、1866年に横浜でイギリス軍が行った試合が日本初という説がある。


いずれにしても明治維新を起点に日本は近代国家としての歩みを始め、そのひとつの側面として「スポーツ」という概念も輸入され徐々に定着していくわけである。


そして1929年、小守は東京大学サッカー部の要請に応えるかたちで選手にマッサージを行っている。小守はこれを「スポーツマッサージの起こり」と記している。


同時期にマッサージ治療と並行して鍼灸治療も行われていただろうと考えられている。


その後、日本でスポーツと鍼灸に関する資料が登場するのは1949(昭和24)年のことである。


日本における古典的経絡治療の理論体系を築き、後に日欧間の鍼灸治療の交流に尽力した本間祥白氏が鍼灸雑誌「医道の日本」に『スポーツと鍼灸の研究』という連載を始めた。


この連載にはスポーツにおける鍼灸治療の効果についての研究が書かれている。


具体的には、今日的にもスポーツ鍼灸とテーマともいわれる3つのテーマ、


①競技における外傷や障害の治療およびリハビリテーション

②疲労回復

③競技能力向上


について触れられており、現在でも違和感はないといえる。


大学野球部やサッカー部などスポーツ領域への挑戦を続けた小守は、読売巨人軍の専属トレーナーとして迎えられるまでになる。


そして1960年、日本プロ野球トレーナー協会の初代会長に就任しスポーツ領域での鍼灸治療の実践に尽力した。


その功績が認められ小守は1967年には勲三等瑞宝章を受勲している。


小守はその知識と経験を「スポーツ系」(1963年・57頁・医歯薬出版)と「マッサージ効果:スポーツ・美容・健康のツボ」(1963年・200頁・徳間書店)に著している。


4 おわりに


戦時下の日本において小守が鍼の地金を政府から民間に融通させた結果、製造から治療に至る技術や歴史が途絶えることなく今日まで脈々と続いている。


またスポーツ領域に日本で初めて鍼灸按摩マッサージを導入し「スポーツトレーナー」という職業や概念を創造したことで、近代化する日本における鍼灸の可能性を大幅に広げたといえる。


小守の努力が歴史を繋ぎ、創意工夫が未来を切り拓いた。


小守良勝は日本鍼灸史の礎に足跡を残した偉大な人物であるとわかった。


参考文献


小守スポーツマッサージ療院ホームページ

日本におけるトレーナーの変遷 東京有明医療大学雑誌 vol.2 2010年

公益社団法人 全日本鍼灸マッサージ師会 沿革

鍼灸ニュースレター №3 鍼灸医療推進研究会

日本プロ野球トレーナー協会 変遷